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今日8月9日は、長崎原爆の日

今日8月9日は、長崎原爆の日。

73年前、長崎で被爆した父が2001年に書いた体験証言を読み返してみた。


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昭和20年3月横須賀海軍対潜学校に入学しましたが、本土空襲も激しくなり、風雲急を告げる様相を呈し、途中出身母体である佐世保に復帰、即実践配属17歳の少年兵として乗艦した。間もなく南方に出航命令がでた。そして艦整備のため、長崎三菱造船ドック入り中、昭和20年8月9日11時2分、長崎市爆心地より3km以内で被爆しました。あの日から、半世紀余り過ぎた現在のことで、記憶も定かではない点も多い昨今ですが、原爆投下の悲惨なあの出来事は、今でも鮮明に甦ってきます。当日は朝からドック入り中の艦船に物資の積み込み作業を行い、昼食のため近くの仮兵舎に帰った。その時「ピカーッ」と光が走り、「ドーン」と鈍い音、同時に強烈な爆風、その後一面黒い煙に覆われ、視界数mの状態でした。この一瞬の出来事でどう対処したか良く覚えてないが、ふと我に返り周りを見ると、窓ガラスは全部吹き飛び、鉄骨だけが無残に残っていた。この時は誰も原子爆弾だと知る人はなく、特殊爆弾と呼んでいた。

 用意されていた昼食は、ガラスのフリカケとなり、食事どころではなかった。まだ爆弾が落下してくるので、全員近くの防空壕に避難するよう指示があり、急ぎ避難した。壕の入り口には被服は焼け、髪の毛もバサバサ、全身火傷を負った姿で両サイドに座り、頭から白い薬液をかけかれる応急処置がとられていた。小さい声で「水を下さい」と訴えていた姿は今でも私の脳裏に甦る。我々健常者は翌日より、被害の中心地に出かけて被爆処理に当たった。市内を流れる川には、黒く焼けただれた死傷者が折り重なって川岸を埋め尽くしていた。…彼らは火傷で苦しみ、水を求めて川に飛び込んだものと思う。怪我で治療が出来ず防空壕で待機中、間に合わず亡くなった人も多数いた。処理班トラックの後について、放心状態の若い女性が誰かの名前を読んで歩き回っていた。…親近者をなくした悲しみとも思われた。

 心の痛む出来事が続いた。 あの地獄絵を思わせる悲惨な事実を決して忘れることなく、かっくのない平和な21世紀となるべく、各自が地道な活動を続けることが被爆者の努めではないでしょうか。

 私自身73歳と高齢になりました。高血圧と白内障で通院治療を続けており、また目が見え難く不自由に思いますが健康な方です。40年近く務めた会社も定年となり、健康管理の一環として盆栽やゲートボールに仲間入りし、楽しく毎日を過ごしています。 平成13年3月記 南岩国町 小原一馬


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昔は戦争のことをあまり話さない父でしたが、10年位前、ゆかりの地に行ってみたいとぽつり。

横須賀、呉、大津島、長崎など、訪ねてみました。


2010 04 Kure yamato museumu 呉大和ミュージアム 人間魚雷「回天」の前で


2013 10 Otsushima kaiten


2013 10 Kaiten 人間魚雷 「回天」


2015 04 Nagasaki3 長崎爆心地。スペイン大使からの花輪が


2015 04 Nagasaki2 長崎 防空壕。「こんなに小さかったかのぉ」


父も今年90歳になりました。穏やかに毎日を過ごしています。感謝。Love & Peace

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